小豆と菓子

「邪気を払う小豆とお茶うけの菓子」

縄文時代に小豆が食されたことが、福井県鳥浜遺跡から出土した小さな粒の小豆から判明いたしました。

小豆の”赤”は、中国からの「赤は生命力のある色で邪気を払う力がある」との伝承により、祭事や祝い事などに食べられる風習が広まりました。

では、菓子はいつ頃から誕生したのでしょうか。

邪気を払う小豆を使った菓子の起こりと、今日の菓子になった経緯について見ていきましょう。

◆菓子の起こり

「水菓子」という言葉は、現在の菓子ではなく、木の実などの果実が菓子として使われていたことのあらわれです。

甘みを果実に求めていたのですね。果実の甘みの発見は凄いですね。果実は、補食の意味合いもあったようです。

奈良時代にすでに、餅米やうるち米を材料とする餅と、小麦粉を使った餅が作られ、餡、油、ゴマが副材料として使われています。

遣唐使、遣隋使が、中国から持ち帰った菓子は、”唐菓子”と呼ばれ、粉をこねて油で揚げたもののようです。当時、唐菓子は宮廷での節句および供物であり、庶民には縁がありませんでした。

奈良、平安、鎌倉時代は、一日二食といわれていますことから、和菓子は主食、または補食的な役割が窺えます

鎌倉時代の禅僧には、食事前後の軽食の点心と、食後の茶うけで飲茶の習慣がありました。次第に点心・茶うけが三食の習慣になって同義に使われるようになりました。これらに使われていた点心は大変質素なものでした。

そして、南北朝時代にはまんじゅうが作られるようになりました。中国から伝わった羊羹は、茶道の点心として食べられました。

室町時代に喫茶と結びつき、次第に菓子は発展しましたが、利休が茶会に用いた菓子は、ふ焼き、くり、シイタケ、昆布などの茶うけの類の質素なものでした。この当時においては、砂糖の使用は難しかったようです。

安土桃山・室町時代の南蛮菓子は、菓子の原料や製法に大きな影響を及ぼし、全国に広まりました。

江戸時代には、京都では上流階級の季節感を持り、また優美な技巧をこらした「京菓子」が作られるようになりました。一方、江戸では生活に密着した牡丹餅や大福などの菓子が作られ、製菓の基盤ができました。京菓子は、茶道の隆盛と砂糖の生産量の増加により完成されたといっても過言ではないでしょう。

◆邪気を払う小豆の効果を菓子でとろう

古くから小豆が菓子にも使われ、塩味から、砂糖の生産技術の発展によって今日の域に達しているのです。

小豆の効能は早くから知られています。

中国の神話時代の皇帝の神農にも、小豆の解毒作用がいわれています。

約5割がでんぷんであり、過熱すると美味しい食材で、邪気を払うとのいわれのある小豆は、菓子の材料としても、そして供物にも最適であり、あんことして使われてきました。

また、ビタミンB1を多く含み、糖質のエネルギー代謝に、疲労回復、筋肉痛、夏バテ、二日酔いなど効果・解毒作用があるといわれています。

むろん、ビタミンB1は脚気に効果があり、江戸時代は小豆が奨励されました。

食物繊維も豊富で便秘解消や腸内の不良物質の排泄の効果もあります。

さらに、あく成分のサポニンに、中性脂肪やコレステロールを低下させる効果があり、高脂結晶や高血圧の予防になります。

利尿効果も高くむくみの解消効果もあります。皮に含まれるポリフェノールもワインの2倍もあり、がん予防の効果もあるといわれています。

 

このように非常に様々な効果をもつ小豆が、現代では菓子としてたやすく食べられるのです。

一般的に嗜好されるあんこを使用した菓子は、病気の予防や諸症状の解消を担うことが可能といえるのではないでしょうか。

ちなみに、国内のあんこの消費量は、平成22年8万1千トンです。小豆も大豆同様に、病気の予防の1つとしまして、毎日食したい食材といえるのではないでしょうか。